September Records

セプテンバーレコードの店主です

深夜散歩

嬉しいことに、11月末から来年にかけてやり甲斐があるデザイン仕事がたくさん入った。

店での接客時間以外はデスクに向かっていることが多く、運動不足が万年化している。一日数百歩しか歩かない日もあるし、長年マウスを握り続けている右手は使い過ぎで、医者やマッサージ師から同情されるほど硬直しちゃっている。

こないだはコーヒーポットが持ち上がらないくらい腕が重く、今日はカレースプーンを持つ親指が痛む。

これでは流石に1月いっぱい入っているデザイン仕事を乗り越えられないと思い、3日坊主になるかと思うけど運動することにした。

昨日の閉店後、仕事の合間に近所を散歩しようと外に出た。イヤホンでエディ・リーダーのアルバムを聴き、うきうきと歩き出したが、街灯もまばらで暗すぎて危険、遠くでサイレンが鳴り出しよくわからない不安、目が慣れてくるにつれだんだんと見えてきた景色が不気味で怖くなり、曲をアーサーラッセルに変えて直ぐに帰ってきた。

今日は続いていた仕事が一段落したので、閉店後車に乗り歩ける場所を探しに行った。

なかなか良い場所が無く一瞬帰ろうかと思ったが、まずステーキ店に入り350gの肉を注文し平らげた。これでは足りない、さらにコンビニでアイスとコーヒーを買い、このままでは帰れない状況をつくった。

どこでもいいやと広めの公園にたどり着くと、駐車場にはぱらぱらと5台くらいの車があり、どれも中に人がいて、それぞれなて何かしているみたいだ。

園内は思ったより暗いが、昨日とは段違いに安心感がある。

今日初LP化したhideのアルバムをiPhoneに用意しておいたので、久々にイヤホンで聴きながら歩き出した。さっきまで店で聴いていたレコードは迫力があり感動したけど、いままでずっとイヤホンで聴いていた曲だから、やはりこちらの方がしっくりきた。

歩道には誰もいないから、口パクで歌ったり、サビで走り出したり、ギターを弾くまねをしても大丈夫だ。後で木陰やベンチなどに数人いたのがわかり、少し恥ずかしかったけどまあいい。それよりも、広い公園を自由に歩くのは気持ちが良い。

そんな風にしばらくしていたらある思いがよぎる。そういえばちゃんとこの公園に入ったのは初めてかもしれない。小学6年生のとき好きだった女の子とデートで行く妄想をしてそのままになっていた公園は、あの時思っていた以上に広く、小さな池と丸く赤い橋があり、細い川が流れ、遊具がたくさん、意外と起伏があって楽しい空間だった。

小学2年から長い間好きだったその女の子から、中一の冬に告白されて本当に嬉しかったけど、突然の出来事に恥ずかしくなってしまい、それ以来無視してしまった。

あの時ちゃんと思いを告げる事ができていたら、また違う人生だったんだろうかとか、その時から果てしなく分かれる選択肢を想像し、変に汗ばんだ挙句くらくらきたので、最後はever freeでダッシュしてから帰宅した。平和な一日。

 

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行き当たりばったり松本への旅。

ホテルを出て、昨日飲み屋で教えてもらった近くのパン屋さんteteへ。小麦のクロワッサンはじめ、小松菜とカマンベールチーズのパンも美味しかった。多分全部のパンが美味いはず。店構えや陳列の感じで大体わかる。ジャケットが良いレコードにハズレはない。

寝坊したから直ぐに車を走らせる、雲は少しあるものの、空は青く天気がよい。

時たまパラっと降ってくる雨は、どこから来るのだろう。とにかく、東部湯の丸で高速を降りたあと、三才山トンネルへ向かう通りが素敵すぎた。

山を裂くように走る国道、雲間から強く差し込む光が、紅葉の山々を照らし出して、見事なコントラスト。特別に吸い込まれるような色や形の木々に出会うと、ついハンドルを取られそうになる。まるで黄泉の国だ。

それまで気にならなかったカーステレオから、電気グルーヴ / 虹(A Day In Japan)が流れ、音楽と景色が一体化した一瞬、オレこのまま死ぬのかな、というような感じがした、あまりにも贅沢な5分5秒。

松本には12時に少し前ついた。マーキングレコード→かつ玄 カキフライ→ミナペルホネン→珈琲まるも→栞日→マーキングレコード再び、で3時間大満喫。

時間はまだあるけど、一人白線流しをやっても虚しい。それよりも、あの景色をまた見ながら帰りたいと思い、早い時間に松本を発った。帰り道は午前中と違い、山々自身の影でつくらる紅葉のグラデーションがよい。

三才山トンネルを抜けると、看板に上田市街まで20数キロの文字、そういえば20年来の友だちの出身地は、確かこの辺りだったような気がする。車を端に停め、久々に彼女にメールをすると、こんにちは!と一緒に、今行くべきスポットリストが返ってきた。

上田方面に30分ほど車を走らせながら、あの子はこんな景色を見て育ったのか、とか、奥に連なる二色の山に向かってゆっくりとカーブする道路が、ファミコン極初期に任天堂から発売されたF1レースみたいだなぁとか思っていたら、たまたま倉庫開放日だった家具屋、halutaについた。

だだっ広い倉庫に、素晴らしいデザイン家具や小物が沢山ありすぎて、ちっとも落ち着かない。ミナのファブリックを使ったソファやチェアも眩しすぎる。

ただ、初めて務めたデザイン事務所で使っていたものと同じコーヒーカップが目の前に現れた瞬間、足が止まった。

約15年前に事務所を去る日、いつかまたこのカップでコーヒーを飲みたいなと、初めて裏の刻印を確認し、今までずっと覚えていた。あちこちの実店舗でさがしても同じ形のものは見たことはなかったし、ネットで買おうなんて野暮なことはしない。


つい最近、そのデザイン事務所がもうすぐ移転する、と連絡があった。デザインの基本、全てを教えてもらったあの空間に、ここのところ再び想いを馳せていたから、こうして今日、このカップに出会えたのは運命なんだなと思う。

これまで運命的なことはもちろん、運命と思い込んでいることはたくさんあるけど、その方が幸せだなと思う。ミナのソファもいつか。

 

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※他の写真はインスタにアップしています。

連鎖

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久しぶりに開いたコラム本の冒頭3ページで手が止まってしまった。

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はっきりとした”悪意のメール”を受け取ったとき、「悪いことしていないのに、なんでこんなこと言われなきゃいけないの」とは思ず、自分がこの人を攻撃したのだろうなと思った。

コツコツとコラムを書き続けること自体、人によっては攻撃ととらえる人がいる。ある人が必死で自分を生きている。そのことだけで、すでに攻撃。

そして、著者が一番そっとして欲しかった時期、持ちきれなかった悪意を、自分より弱い、罪もない母にぶつけてしまった。

どうして、悪意は、つよいものから、弱いものへ、権力のあるものから、ないものへ、大人から、こどもへと、はけ口を求めるのだろう?

~中略~

今日、自分から良い連鎖を起こせるか。

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ある人が必死で自分を生きている姿を、攻撃と感じてしまう人、SNSでみるあの感じ、なんだか切ないが、わからなくもない。

いままで人を信じてきたし、大事な時には助けられてきたから、人の繋がりを誰よりも求めてしまう。

どうやらボクは、ひとに期待し過ぎちゃうから、毎回必ず少し裏切られるらしい。それを知ってから、とても楽になった。逆にもっとひとを信じられるようになり、いやだと感じる人が減った。

分人主義などと、簡単なことばで済まされちゃうのはシャクだが、それも当てはまってしまうようだ。

インターネット、特にSNSを利用するようになり、同じように社会から仕分けられ、引き寄せられた共通言語を持つ方々とは、話が早いし、とても心地良い。

しかし、SNSで知ったような気になって、そのままにしてある事も多い。全部を知るのは不可能だし、選択肢が多いのは逆に辛い。

流されちゃうと、みんなと同じ体験しかできないから、常に自分で選び続けて、リアルな経験を積み重ねていくのが大事だ。そうすれば無茶をしなくても、じゅうぶん生きてる実感はできる。

中略したところが、実は一番ぐさっと来た所だったのだけど、まだ消化できないからやめた。

とりあえず、今日は朝から部屋を片付けて、いつもより母と話した。

 

冷たい雨の日のベランダ

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冷たい雨が続くと、20歳の頃に住んでいた部屋のベランダのことを思いだす。当時読んでいた本のあいだから、この写真が出てきた。

大学2年の春、渋谷にあったレコード屋で週3回くらい働くことになった。閉店後も店にいる事を許されている音楽関係者や先輩方が、毎晩あちらこちらと飲みにいくのに同席させて頂き、そこで繰り広げられる会話を聞くのが楽しみだった。

当時は渋谷まで小田急線と井の頭線を使い1時間もかけて通っていたので、いつも途中で先に帰らなければ行けないのがつらい。

レコ屋に近く、良い物件はないかと情報誌をめくっていると、渋谷駅徒歩圏内、40平米、ペット可、6万5000円という物件をみつけた。明らかに安すぎるとは思ったものの、不動屋に向かい話を聞くことにした。

まだ20代と思われる男性店員は、掲載の物件はお客を呼ぶ為のものであって、今時あんなに安いのがあるわけ無いよ、と正直に話した。

はぁ、そういうものなのか、今の予算ではネコを買うのは現実的ではないし、渋谷なんかに住める訳がないのかと、、最終的に提案された、都立大学徒歩15分、6万5000円を半ば強引に内見せずに決めさせられた。

引っ越してきて驚いた、荷物が多い自分にとって、部屋が狭すぎる。しかも一階のベランダからつづく共用の中庭はあるものの、外から中は丸見えだった。それでも渋谷から東横線で10分、タクシーでも2千円代前半のところに住めたのは嬉しかった。

ある日、窓を開けたベランダに仔ネコが一匹やってきた。突然の来訪であたふたするも、急いでコンビニにフードを買いに行った。戻った時にはすでに姿はなかったが、それ以来ベランダにキャットフードを置いて出かけるようになった。

帰って来てごはんがなくなっていることが嬉しい。そのままになっているときは、今日はどこかの誰かに世話になっているのかな、などと、狭い部屋のベランダから続く世界がとても広く感じた。

今日みたく朝から冷たい雨が降っていた日、雨宿りをするように、ぞろぞろと親ネコと仔ネコ3匹がやってきた。そうかそうかと、ごはんをあげると、親ネコは警戒しつつも、子供がお腹いっぱいになるのを見守っている。("写ルンです"で撮った写真には1998年6月とある。)

それから数日間、雨は降り続けた。雨風がしのげるように、段ボールと毛布で簡易的なネコ小屋を作ってあげたが、産まれたばかりの仔ネコには厳しい環境だったらしく、グレーのこの仔は、翌日冷たくなってしまっていた。

昨日まで威勢が良かった母ネコが、いつまでもその仔を温めるように舐めているのが見ていて辛かった。しっかりしなきゃな、と素手でその仔を引き離し、マンションの花壇近くに埋葬した。

ほんとうは、どこまで戻って、どうすれば良かったのかなぁ、といつも考えてしまう。

古本屋の棚

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店は金曜が休みだから、連勤が終わる木曜20時になると、予定が無くてもとりあえず街に出ることにしている。店や部屋は好きなもので溢れていて、頭の切り替えができないし、何もしていないという事が辛くなってしまい、結局仕事をしてしまうからだ。

無理やり1週間を終わらす為には、ヘビーなたぐいを食べて罪悪感という快感に浸ったり、離れた場所や知らないところに行って、いつもと違う話をしたり、本を読んだりするのが手っ取り早い。

お酒は飲み始めたばかりだから、酒場でのマナーを探りながら、黙って飲むのも楽しいし、これまで関わる事がなかった方々の、未知なる話を聞くと、翌日からの世界が違って見える。

街中にこんなにもたくさん花屋ってあるものなのか、と驚いたことがある。花が好きな人と楽しく話をして以来、これまで通り過ぎてきた路地から、花屋がぽんぽんと浮き出てくるようになった。

一つのことをやり続けられる人に憧れる。でも追求していることの安心感や、最後までやらなきゃという義務感が顔を出したら、もっと他に優先すべきことがあるのかも知れないな、と思ってしまう。俯瞰でみたり、休むことも必要。

いつもの生活が、欠けてるピースを埋めていくような作業になってしまったら、まず他方にも目を向けてみて、見るものの解像度をあげていったらいい。

いろんな3日坊主でも続ければ、知らずしらず環境が整って、なんでも最初からより深く掘り下げられるし、やり続けるべきかどうか、より早く判断ができる。

老いるのは簡単だから、人によって時間はとても短い。

いまは、憧れだった人に会いに行ってコーヒーを飲んだ帰りに見つけた古本屋にならぶ色あせた本の背表紙でできた壁をみて感じたことをまとめる時間であって、、まだベッドからでる時間じゃないといういいわけをしたいわけじゃあない。

むだな自意識

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早く起きちゃって、近所のパン屋でモーニングを食べながら読み返している本の一節の要約。 

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18歳の頃、シャンソン歌手が歌う店に間違えて入ってしまい、客は自分一人。ヒラヒラドレスのお姉さんがマイクを持って歌いながら近づき、「オー、シャンゼリゼ〜」と歌ったあと、こちらにマイクを向けてきたが、顔を真っ赤にして無言で店をとびだした。

そして47歳になって「そういう無駄な自意識とはようやく無縁になれた」「いまなら恥をかなぐり捨てて大きな声でわざと楽しそうに演技して歌っていると思う」。

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挨拶ができない、「ありがとう」とか「いただきます」が言えない、などは、人との付き合いを決定的に左右する問題だと思うけど、さっきのシャンソン歌手のくだり、みたいなことは、ひとによってはあってもいい「無駄な自意識」だなと思った。「無駄な自意識」を自覚していればいいと思う。

頭から否定して、世間的に言えば「大人になる」ことの方がつまらないような気がするし、強要したり流される方が良いという世は、辛い。

ぼくはいつになっても、人の目を見て話すのが苦手だし、話を伝えようとすればするほど、話したいことが湧き出てきて話が脱線しちゃうし、常にひととの接しかたについて考え過ぎだ、と思う。

でも今は無駄な自意識を自覚している人を、受け入れてくれる人や場所が沢山あるのは知っていて、その中でしか生きられないことを自覚しているから、とても楽。

クラブイベントでみんなが楽しそうに踊っているなか、「無駄な自意識」が邪魔して輪に入れず、でっかいスピーカーに向かって一人で踊るしかないようなひとや、かつてそうだったひとが好き。

ビラまきのコジマさん

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今から15年以上前、小田急線のとある駅周辺に住む彼女がいて、デート帰りによく家まで送ったりしていた。いつも駅の構内で青いキャップとベンチコートなどを着てビラを撒く、ひとりの青年がいて、僕らは彼をコジマさんという愛称で勝手に呼んでいた。

コジマさんはいつも、通行人の邪魔にならない絶好の場所に立ち、動作は自然、声の大きさやトーンも街に馴染んでいたし、自分に関係ないジャンルのチラシだったけど、思わず頂きたくなるような、ビラ撒きのプロだった。 .

「今日もコジマさん、いたよ。」と何度会話に出たかわからないくらい、おそらく彼は沢山の人に愛されていたはずだ。

彼女との関係も深まり数年経ったある日、コジマさんにも相棒というか、後輩が出来たみたいで、丁寧にビラ撒きのノウハウを伝授していて二人で楽しそうに仕事をしているのを見かけた。

それから後輩は増え、現場を任せられるようになると、コジマさんはパッタリと見かけなくなってしまった。会えないのは寂しいが、彼の昇進か、あらたな門出を勝手に祝った。

その駅にはそれから何年も通ったけど、コジマさんには会えない。たまに街でビラ撒きをしている人を見ると、コジマさんならこうするのにな、と思い出したりしていた。

それから群馬に戻って四年、ビラ撒きも居ないし、コジマさんの事はすっかり忘れていた。

昨夜から新宿ゴールデン街で朝まで6時間も呑んでうつつを抜かしたあと、371番のカプセルルームに飼われたようでやはり眠れず、ふらふらだけど、無理して 地下にあるいつものポークカレーを食べて、地下階段を上がると、眩しい日光に目をやられたのと同時にビラ撒きの声が頭をぐるぐる。

そういえば、コジマさん今頃何してるのかな、そう思うのと同時、蛍光オレンジのジャンパーを身に纏いビラを撒く、真っ黒に日焼けをしたコジマさんが目の前に現れた。

コジマさん!!なにしてるんですか!!!と声を掛けたかったが、一瞬にして彼の人生がフラッシュバックして立ち止まれず、振り返ることも出来なかった。

今日一日、彼の15年間を想像しながら店に立っていますので、コーヒーでも飲みに来てください。すっきりドリップがオススメ。