September Records

セプテンバーレコードの店主です

冷たい雨の日のベランダ

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冷たい雨が続くと、20歳の頃に住んでいた部屋のベランダのことを思いだす。当時読んでいた本のあいだから、この写真が出てきた。

大学2年の春、渋谷にあったレコード屋で週3回くらい働くことになった。閉店後も店にいる事を許されている音楽関係者や先輩方が、毎晩あちらこちらと飲みにいくのに同席させて頂き、そこで繰り広げられる会話を聞くのが楽しみだった。

当時は渋谷まで小田急線と井の頭線を使い1時間もかけて通っていたので、いつも途中で先に帰らなければ行けないのがつらい。

レコ屋に近く、良い物件はないかと情報誌をめくっていると、渋谷駅徒歩圏内、40平米、ペット可、6万5000円という物件をみつけた。明らかに安すぎるとは思ったものの、不動屋に向かい話を聞くことにした。

まだ20代と思われる男性店員は、掲載の物件はお客を呼ぶ為のものであって、今時あんなに安いのがあるわけ無いよ、と正直に話した。

はぁ、そういうものなのか、今の予算ではネコを買うのは現実的ではないし、渋谷なんかに住める訳がないのかと、、最終的に提案された、都立大学徒歩15分、6万5000円を半ば強引に内見せずに決めさせられた。

引っ越してきて驚いた、荷物が多い自分にとって、部屋が狭すぎる。しかも一階のベランダからつづく共用の中庭はあるものの、外から中は丸見えだった。それでも渋谷から東横線で10分、タクシーでも2千円代前半のところに住めたのは嬉しかった。

ある日、窓を開けたベランダに仔ネコが一匹やってきた。突然の来訪であたふたするも、急いでコンビニにフードを買いに行った。戻った時にはすでに姿はなかったが、それ以来ベランダにキャットフードを置いて出かけるようになった。

帰って来てごはんがなくなっていることが嬉しい。そのままになっているときは、今日はどこかの誰かに世話になっているのかな、などと、狭い部屋のベランダから続く世界がとても広く感じた。

今日みたく朝から冷たい雨が降っていた日、雨宿りをするように、ぞろぞろと親ネコと仔ネコ3匹がやってきた。そうかそうかと、ごはんをあげると、親ネコは警戒しつつも、子供がお腹いっぱいになるのを見守っている。("写ルンです"で撮った写真には1998年6月とある。)

それから数日間、雨は降り続けた。雨風がしのげるように、段ボールと毛布で簡易的なネコ小屋を作ってあげたが、産まれたばかりの仔ネコには厳しい環境だったらしく、グレーのこの仔は、翌日冷たくなってしまっていた。

昨日まで威勢が良かった母ネコが、いつまでもその仔を温めるように舐めているのが見ていて辛かった。しっかりしなきゃな、と素手でその仔を引き離し、マンションの花壇近くに埋葬した。

ほんとうは、どこまで戻って、どうすれば良かったのかなぁ、といつも考えてしまう。

古本屋の棚

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店は金曜が休みだから、連勤が終わる木曜20時になると、予定が無くてもとりあえず街に出ることにしている。店や部屋は好きなもので溢れていて、頭の切り替えができないし、何もしていないという事が辛くなってしまい、結局仕事をしてしまうからだ。

無理やり1週間を終わらす為には、ヘビーなたぐいを食べて罪悪感という快感に浸ったり、離れた場所や知らないところに行って、いつもと違う話をしたり、本を読んだりするのが手っ取り早い。

お酒は飲み始めたばかりだから、酒場でのマナーを探りながら、黙って飲むのも楽しいし、これまで関わる事がなかった方々の、未知なる話を聞くと、翌日からの世界が違って見える。

街中にこんなにもたくさん花屋ってあるものなのか、と驚いたことがある。花が好きな人と楽しく話をして以来、これまで通り過ぎてきた路地から、花屋がぽんぽんと浮き出てくるようになった。

一つのことをやり続けられる人に憧れる。でも追求していることの安心感や、最後までやらなきゃという義務感が顔を出したら、もっと他に優先すべきことがあるのかも知れないな、と思ってしまう。俯瞰でみたり、休むことも必要。

いつもの生活が、欠けてるピースを埋めていくような作業になってしまったら、まず他方にも目を向けてみて、見るものの解像度をあげていったらいい。

いろんな3日坊主でも続ければ、知らずしらず環境が整って、なんでも最初からより深く掘り下げられるし、やり続けるべきかどうか、より早く判断ができる。

老いるのは簡単だから、人によって時間はとても短い。

いまは、憧れだった人に会いに行ってコーヒーを飲んだ帰りに見つけた古本屋にならぶ色あせた本の背表紙でできた壁をみて感じたことをまとめる時間であって、、まだベッドからでる時間じゃないといういいわけをしたいわけじゃあない。

むだな自意識

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早く起きちゃって、近所のパン屋でモーニングを食べながら読み返している本の一節の要約。 

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18歳の頃、シャンソン歌手が歌う店に間違えて入ってしまい、客は自分一人。ヒラヒラドレスのお姉さんがマイクを持って歌いながら近づき、「オー、シャンゼリゼ〜」と歌ったあと、こちらにマイクを向けてきたが、顔を真っ赤にして無言で店をとびだした。

そして47歳になって「そういう無駄な自意識とはようやく無縁になれた」「いまなら恥をかなぐり捨てて大きな声でわざと楽しそうに演技して歌っていると思う」。

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挨拶ができない、「ありがとう」とか「いただきます」が言えない、などは、人との付き合いを決定的に左右する問題だと思うけど、さっきのシャンソン歌手のくだり、みたいなことは、ひとによってはあってもいい「無駄な自意識」だなと思った。「無駄な自意識」を自覚していればいいと思う。

頭から否定して、世間的に言えば「大人になる」ことの方がつまらないような気がするし、強要したり流される方が良いという世は、辛い。

ぼくはいつになっても、人の目を見て話すのが苦手だし、話を伝えようとすればするほど、話したいことが湧き出てきて話が脱線しちゃうし、常にひととの接しかたについて考え過ぎだ、と思う。

でも今は無駄な自意識を自覚している人を、受け入れてくれる人や場所が沢山あるのは知っていて、その中でしか生きられないことを自覚しているから、とても楽。

クラブイベントでみんなが楽しそうに踊っているなか、「無駄な自意識」が邪魔して輪に入れず、でっかいスピーカーに向かって一人で踊るしかないようなひとや、かつてそうだったひとが好き。

ビラまきのコジマさん

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今から15年以上前、小田急線のとある駅周辺に住む彼女がいて、デート帰りによく家まで送ったりしていた。いつも駅の構内で青いキャップとベンチコートなどを着てビラを撒く、ひとりの青年がいて、僕らは彼をコジマさんという愛称で勝手に呼んでいた。

コジマさんはいつも、通行人の邪魔にならない絶好の場所に立ち、動作は自然、声の大きさやトーンも街に馴染んでいたし、自分に関係ないジャンルのチラシだったけど、思わず頂きたくなるような、ビラ撒きのプロだった。 .

「今日もコジマさん、いたよ。」と何度会話に出たかわからないくらい、おそらく彼は沢山の人に愛されていたはずだ。

彼女との関係も深まり数年経ったある日、コジマさんにも相棒というか、後輩が出来たみたいで、丁寧にビラ撒きのノウハウを伝授していて二人で楽しそうに仕事をしているのを見かけた。

それから後輩は増え、現場を任せられるようになると、コジマさんはパッタリと見かけなくなってしまった。会えないのは寂しいが、彼の昇進か、あらたな門出を勝手に祝った。

その駅にはそれから何年も通ったけど、コジマさんには会えない。たまに街でビラ撒きをしている人を見ると、コジマさんならこうするのにな、と思い出したりしていた。

それから群馬に戻って四年、ビラ撒きも居ないし、コジマさんの事はすっかり忘れていた。

昨夜から新宿ゴールデン街で朝まで6時間も呑んでうつつを抜かしたあと、371番のカプセルルームに飼われたようでやはり眠れず、ふらふらだけど、無理して 地下にあるいつものポークカレーを食べて、地下階段を上がると、眩しい日光に目をやられたのと同時にビラ撒きの声が頭をぐるぐる。

そういえば、コジマさん今頃何してるのかな、そう思うのと同時、蛍光オレンジのジャンパーを身に纏いビラを撒く、真っ黒に日焼けをしたコジマさんが目の前に現れた。

コジマさん!!なにしてるんですか!!!と声を掛けたかったが、一瞬にして彼の人生がフラッシュバックして立ち止まれず、振り返ることも出来なかった。

今日一日、彼の15年間を想像しながら店に立っていますので、コーヒーでも飲みに来てください。すっきりドリップがオススメ。